スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

聖書の研究 エロヒム

旧約聖書における神名の意味
城俊幸
1. 序

 「名は体を表す」という諺がある。特にその実体が名状しがたい場合は、呼称は実体を表現している場合が多い。聖書では、神について多くの呼称が使われている。だが、その中のどの表現が正しいのか。どれがキリスト教の神を表現するのに的確なのかという問いは無意味である。聖書が啓示として人間に与えられているのなら、むしろ各々の呼称が、神という実体のどのような側面を、どのように表現しているのかを考えることが重要なのである。人間の認識能力は有限であり、全ての側面を十全に知ることはできないからである。*1
 神の呼称には、それぞれに神の部分的な側面が表現されている。*2そこで、各々の呼称を吟味することによって、神の属性の一部が明らかになる。しかも、この神の呼称を吟味すると、そこには変遷の跡がみられる。ただし、この変遷とは、ヴェルハウゼン学派が行ったような神概念の発展論的な説明を意味するものではない。*3
 そこで、この論文では、旧約聖書における神名の調査・吟味を通じて、どのような変遷があり、それが何を意味しているのか、そして、各々の神の呼称が神のどのような属性を表現しているのかを解明する。

2. 神名の意味と頻出回数

 比較研究するために、神の呼称の中で頻出するものを、カタカナ表記・原語・回数・特徴を付け、一覧表にした。それが資料1である。(本文中で用いられる神名は便宜上全て資料1のカタカナ表記に従う。)

 このような神名の呼称、頻出回数、頻出箇所からどのようなことがわかるのであろうか。
 図表にある通り、ヤーウェ(約6500回)、エロヒム(約2300回)、エル(約280回)、アドナイ(アドニィを含む約300回)の4つが主なものである。まず第一にわかることは、神の呼称として「主」「神」が断然多く、そして「主なる神」「万軍の主」「イスラエルの神」という呼称が比較的多いということである。そしてまた、これらは新約聖書に出てくるギリシャ語の2つの主な神名(セオス、キュリオス)の源をなしている。*4
 さらに、最頻出の「神」と訳されるエル、エラー、エロヒム、エローアの4つと、「主」と訳されるヤーウェ、アドナイ、アドニィの3つに絞り、頻出箇所での頻出回数を調べたものが資料2である。
 以下では、これらの資料およびそれぞれの語句のコンテキストをもとにして、エル、エロヒム、ヤーウェ、アドナイの4つを中心に吟味、考察する。

1)エル
 ヘブル語でエルという語句は、「神々の王、被造世界の創造者」という意味をもっている。*5 エルは、「実際上はエロヒムの古い形であり、またその詩的な用法である。」*6
 エルの用法、コンテキストを吟味すると、神の属性を表現するために修飾語句を伴った用法が多いことがわかる。*7

全能の神、永遠の神、現われた神、ねたむ神、命の神
力あるわざのできる神、いつくしみ深い神、真実の神
恐るべき神、生ける神、聖なる神、すべてを知る神
あわれみなる神、天の神、天にいます神、義なる神
報いる神、神々の神、恵み深い神
われわれを造った神、ご自身を隠される神
父の神、私の神

 これらの用法は、修飾語をつけて、神の属性を限定的に表現しているものと言える。これを「限定的用法」と名付けておく。これは、エルの用法全281回中、273回(97%)である。これに対して、「神による非限定的用法」(属性によって限定されていない用法で、神自らが一人称で語る用法)は極少ない。エルの用法281回中わずかに8回のみである。また、「語り」と関係したものは3回、「神よ」という呼びかけは2回のみである。
 つまり、エルでは、イスラエルの民が神の業を体験し、修飾語句を介してその属性を表現した用法が多い。「神が何をしたのか」を表現するのではなく、「神がなされたこと」を体験した人間に与えられた神の属性である。それゆえ、限定的用法が多いのである。
エルは、主にモーセ五書、ヨブ記、詩篇、イザヤ書で用いられている(資料2参照)。また、エルの派生語であるエラー(全74回)は、エズラ記(27回)、ダニエル書(47回)のみで使われている。エル・シャダイ(全能の神)のシャダイはヨブ記に特有で、*8「全能者」全48回中28回用いられている。それは、全能なる神、創造者としての神を示している。ヨブ記では、信仰をもった人間の姿を代表するヨブと神との対比、つまり「無力なる人間」と「全能なる神」(エル・シャダイ)との対比がテーマとなっている。そこで、シャダイ(全能)という用語が多く用いられるのである。
 
 以上、エルの用法には「限定的用法」が多く、「神による非限定的用法」が少ないこと、そして用法上のコンテキストから、まず第一に、神は万物の創造者、自然を支配する力、全能者として捉えられていたこと、ただし、この全能とは力としての全能を示すものではない。*9第二に、神の霊的・対話的な側面が明確には表現されていないということ、がわかる。恐れ多い神の業を体験した人間が、神のその業を媒介して、神を表現した。これがこの名の由来であり、意味するところである。ただし、後期の文書ではエルはエロヒムの詩的な用法として転用されている箇所もある。

2)エロヒム
 エロヒムは文法上エローアの複数形である。エローアは、61回用いられている。*10この複数形は、複数の神々、多神教を意味するものではなく、「神というものは、多数の力をもっていると考えたセム人共通の神概念の名残であろう」といわれている。*11エロヒムの語義は、「支配者、裁判者、神聖なる者、天使、神々」「神、神性、神の作品、真の神」である。*12
 エロヒムにおける限定的用法の例を以下に挙げる。

 A あなたの神 304回(内298回申命記)
   あなた方の神 65回
 B われわれの神    97      自分の神 34
   わたしの神(わが神)32
 C すべて命あるものの神 19 ダビデの神12
   先祖の神  8  ヤコブの神 4  彼らの神  3
   エクロンの神1  エリヤの神 1 セムの神  1
 D 天の神  56 生ける神35 大いなる神28 天地の神17
   まことの神15 公平の神14 近くの神 13 遠くの神13
   全地の神  3 真実の神 3 救いの神  3 命の神  2
   力ある神  2 答える神 1 山の神   1 聖なる神 1

 エルに比べ、修飾語句を伴う「限定的用法」(D)は2332回中
183回(8%)と少なく、むしろ「代名詞を用いる限定的用法」(A・B)が多い(532回23%)。さらに、この代名詞を用いる限定的用法A、Bを吟味すると、「あなたの神」はモーセ五書に多く、それ以外では「あなた方の神」「わたしの神」「われわれの神」という用法が多いことがわかる。
 つまり、モーセ五書においては「神の側からの直接的な啓示」を表現するものが多かったので、人間は語りの二人称で表現され「あなたの神」となり、それ以外の箇所では「人間の側からの限定」によるので、人間の一人称で「わたしの神」「わたしたちの神」となると考えられる。また、「あなた方の神」「われわれの神」という複数形の所有格が用いられているのは、この段階では啓示がイスラエルの民(先祖代々)に対するものであることを示している。
 「あなたの神」というモーセへの神の直接的な啓示を通じて、先祖の神はイスラエルの民の神「あなた方の神」へと変容し、それがやがて人間中心の観点から「わたしの神」「わたしたちの神」となる。つまり、モーセ五書の中のエロヒムは、「あなたの神」として個人に直接現れ啓示する神であったが、モーセ五書以外では一人称としての神の啓示が薄れ、そこに「わたしの神」「われわれの神」さらに「わが神よ」という「呼びかけの用法」が用いられ始めたと考えられる。
 さらに、「非限定的用法」も積極的な意味をもつもの、つまり「神による非限定的用法」と、消極的な意味をもつもの、「人間による非限定的用法」(人間中心の観点)とに分けて考えることができる。「神による非限定的用法」とは「(神が)わたしは~である・した」という用法(約250回11%)である。これは神の属性の表現というより、生ける神の「働き」を示すものである。これは、主に創世記全体と出エジプト記第20章までに頻出している。出エジプト記の第21章以降では、「限定的用法」や「人間による非限定的用法」が多くなる。ただし、エルの場合と異なり、修飾語句を伴う「限定的用法」は全体で183回(8%)と極少ない。「どのような神なのか」(How)ということを表現する修飾的・限定的用法ではなく、「誰が神なのか」(Who)「神が何をしたのか、何をするのか」(What)ということにポイントが移ってきているといえる。
 その中でも特徴的なのは、「語り」に関係した箇所(約150回)である。神は人間に語りかけ、告げ、呼ぶ。それを通じて人間は「神よ」(約310回)と呼びかけ、応え、従う。そこには、全能の神、創造者というより、語りを通して人格的な交わりをもたれる神の霊的・人格的な属性が描き出されている。*13「人間はここで語りかけられているわけで、言葉の出来事の中には語りかけられた人間を引き込む方としての神がいる。それは、語りかける方としての神であり、そういう仕方で言語へと到来する方としての神である。」*14

 エルの用法では、表現上は、神は人間にはほど遠く、万物を創造し、自然を支配する全能者として捉えられていたが、エロヒムでは、徐々に神の霊的・人格的な側面、あるいは人間に「語りかける神」としての側面が啓示されてきたといえる。

3)ヤーウェ
 ヤーウェは旧約聖書の中では約6555回用いられている。一番多い呼称である。従来これは、構成する文字YHWH()(神聖4文字といわれている)から、エホバ(YeHoWaH)と発音されていたが、後にヤーウェ(YaHWeH)と発音するのが正しいとされ、現在に至っている。*15
 もともと、これは、モーセが神から直接に啓示された名である。神がモーセに与えた「われありてある者」(出エジプト記第3章13節)のハヤーに由来する。ハヤーとはヘブル語で「存在する、なる」という意味であり、ヤーウェはその使役態(ヒフィル形)を意味すると言われている。*16

 モーセ以前の神の啓示は「アブラハム、イサク、ヤコブの神」として、先祖たちとの個人的な関わりの中で、導き守る神であった。「ヤーウェ」はモーセに啓示された神名であると同時に、イサク、ヤコブを導いた神である。*17先祖代々の神であるその神がモーセに現れ、人格的交わりを通してモーセの問いに対して、自ら「ありてあるもの」という名前を啓示された。このようにモーセに語りかけ、導くことによって、人格的な神の側面が明確に示されていくのである。この段階では、モーセに直接語りかける人格、個性をもった神が啓示されている。神一般ではなく、「ヤーウェ」という固有名を持った唯一神が明確に啓示されているといえる。*18
 前項のエルという呼称は個人に対して直接働きかけ、語りかける神を意味するというより、その名によって神の働きの属性(全能、永遠、聖、義、創造力など)が表現されていると考えられる場合が多い。エロヒムは、語りかける神、呼びかける神であった。ヤーウェでは、先祖の神としてモーセに働きかけるイスラエルの神となる。この時ヤーウェは、エロヒムとは異なり、イスラエル独自の神名となる。ある学者は、このことを踏まえ、エロヒムは神の「一般名」で、ヤーウェは「固有名」であるという。*19また、エロヒムは神を意味するのみならず、神の複数形である神々を意味する用法も100回程度ある。それはまだ固有の神名ではなく、神一般であったことを裏付ける。

 「神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、主(ヤーウェ)という名では、わたしを彼らに知らせなかった。」(出エジプト記第6章2~3節)

 「エルやエロヒムが、実際に真の神として認められるようになったのは、あくまでもイスラエルにヤーウェの名で自らを啓示したことによる。」*20エロヒムのみの段階では、イスラエルにとって神信仰は拝一信仰的である。神はその他の神の中の一つであった。だが、ヤーウェという名は、モーセに直接語りかけ、働きかける神であり、イスラエルの民にとって固有の唯一神として、そこには神の固有性が表現されている。*21モーセ以降、神はイスラエルの神であり、歴史的・人格的に働きかける神として啓示される。このような啓示の変化によって、それまでの拝一神教から唯一神へと神観は移行していった。人格神として語りかけ、歴史に働きかける神となった。ヤーウェという名の啓示によって、エロヒムの意味が弁証法的に止揚されたのである。
 それゆえ、神の戒めを新たに解釈し直した申命記*22以降では、「主」「神」(ヤーウェとエロヒム)が併用される用法が急増している。エロヒムに「主」が併用される用法はエロヒム全体の25%、647箇所もある。しかもこれは、申命記以前にはわずか58回のみだが、申命記だけでも220回もあり、それ以降では369回である。また、神と主が最も頻出する詩篇では、エル105回、アドナイ70回、エロヒム660回、ヤーウェ1218回であり、四者が均等に用いられているが、第二位の申命記では、エル12回、アドナイ0回、エロヒム362回、ヤーウェ630回である。申命記では、エルとアドナイが極端に少ない。

 このヤーウェという神名の啓示と共に、「出エジプトの出来事」と「十戒授与」というエポックが与えられ、人類史は節目を乗り越え、連なっていく歴史となる。エル、エロヒムでは開示されていなかった神の新しい働きが、従来の働きを含意した形でヤーウェという名によって啓示されたのである。*23このように、神は「歴史に働きかける神」として啓示される。イスラエルの民は、継続的な神の現れを忠実に書き記すことによって、神の歴史というものに目が開かれたのである。神は歴史に働きかける神、人格神としての属性をますます顕著に開示していくのである。

4)アドナイ

 アドナイは、ヤーウェと同じく「主」という意味の呼称である。ヘブル語でアドン(主)の強意的複数形であり、原意は「わが主」である。*24アドナイ181回、アドニィ125回、合計306回使用されているが、その大半の251回82%はモーセ五書以外で使用されている。また、「主なる神」を意味するアドナイ・イェホヴィは258回中モーセ五書ではわずか4回しか使われていないが、アドナイではなくイェホバを用いた「主なる神」(イェホバ・エロヒム)は、全36回中20回が創世記で使われている。
 以下にアドナイの用法を挙げる。

主    97回    主よ(ああ主よ)   84回
   わが主   2回    わが主よ(ああわが主よ)2回
万軍の神、主 7回   万軍の神、主よ     1回

 アドナイの用法では、「主よ」という呼びかけが多い。181回中84回(46%)もある。アドニィの意味は「わが主」である。これも125回中26回(21%)は「わが主よ」という呼びかけで用いられている。
 このように、アドナイはヤーウェと同じ「主」という意味をもちながら、第一にモーセ五書には少なく、それ以外の箇所で用いられている。第二に、呼びかけの用法がかなり多い、ということがその頻出箇所と回数およびコンテキストから読み取れる。

 イスラエルの民がモーセの十戒の第三戒に従い、神の名をみだりに唱えるのを嫌い、ヤーウェをアドナイ(主)と呼んだことにこの呼称は由来する。*25しかし、ヤーウェをアドナイのみで置換すると、名が体を表さなくなり、神名が神の属性を啓示せず、神の具体性が見失われ、神は超越者となり、しだいに「遠い神」と捉えられるようになっていく。モーセの十戒の第一、二、四戒で戒められている「神を愛すること」とは逆に、神を超越者として崇め、崇めることによって抽象化・偶像化していく過程へと変容する。このように神名の背後にある豊穣な意味を失い、そのことによって人間は神からの語りかけを失い、その声、啓示を聞き取ることができなくなる。
 つまり、エル、エロヒム(神)やヤーウェ(主)と呼ばれていたものが、申命記では、両者の併用となり、神名の含意する様々な意味・関連性・統一性が徐々に開示されていった。しかし、時代と共にそれらが徐々にアドナイ(主)として置換されるようになり、このような変遷の過程で、神の名が、つまり神の属性の一部が隠蔽されていったといえる。そのことによって生ける神、語りかける神との対話が少なくなり、それに従い、イスラエルの民に対して、神はその姿を隠すことになる。それゆえ、イスラエルの民は、以前にも増して「ああわが主よ」と呼びかけ、神の啓示を待ちわびるのである。

3. 結び

 イスラエルの民やモーセに啓示された様々な神の呼称は、一方でそれぞれの意味のみならず、それらの関連性・統一性を徐々に開示した。しかし、他方で時代と共に徐々にその働きを失い、実体(直接的な宗教体験)と呼称の意味との亀裂が大きくなり、「名が体を示さない」ものとなり、言葉が力をもたなくなっていった。それと同時に、人間は神の呼称を忘れ、人類史に開示されたいくつかの神の属性を忘却する一途にあった。さらにそれに伴い、神の恵みであった出エジプトの出来事やいくつかのエポックは、単なる祝祭として祝われ、十戒も実質のない律法(法律)と化し、預言者の言葉は根拠のないものと軽んじられるようになっていった。こうして、神に関することが徐々に空洞化し、「神の真理」がなおざりにされていったといえる。
 神は人間に対し、その都度歴史を通して、その時代にふさわしい神名を啓示した。しかし、新しい名が、古い名のもつ属性の全てを併せて開示するわけではない。それゆえ、人間は、歴史の目をもって、神の啓示を受け取らなければならない。そうしなければ、人間はその都度の時代にのみ開示された神名、神の属性しか知ることができなくなる。しかも、前述したように、古い神名によって開示されていた神の属性が、新しい神名によって隠蔽されてしまう場合もありうるのである。神名の変遷は、翻訳の歴史ではない。それぞれの神名は、他の語句によっては翻訳されえないものを表現している。それゆえ、神名の一つ一つの独創性を呼称の変遷(歴史性)*26の中で読みとっていく作業が必要なのである。
 特に現代日本では、これら多くの神名を「神・主」という語句で概観してしまっている。しかし、それは、歴史的に啓示された神の属性を隠す行為に連なっていることも、私たちは意識していなければならない。*27

「御名を知るものはあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(詩篇第9章10節)

*1ハンス・ゲオルク・ガダマー『真理と方法Ⅰ』(轡田収他訳、法政大学出版局、1980年)序参照。
*2『キリスト教大事典』教文館、1968年、228頁。「その名の啓示は、その名をもつ神がどのような者であるかを示す・・・名は、その者の性格をあらわす分身のようなものである。ヤハウェの名は、単なる呼称ではなく、ヤハウェの人格と力そのものをあらわす。」
『新聖書辞典』いのちのことば社、1985年、322頁。「名は単に、人が話しかけられたり呼びかけられたりする場合の名称や表記上の記号というようなものではない。それは知りうるかぎりのその人の性格と特徴のすべてを意味している。神の場合もそうである。」
*3ヴェルハウゼン(Wellhausen, Julius 1844-1918)は当時の五書の4資料の年代順をPEJDからJEDPに改め、それを思想の発達の順序に従って進化論的に見て年代づけようとした。旧約における神話にアニミズム、多霊崇拝、単一神教、唯一神教への発展過程を見い出そうとした。
『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年、174頁。「神名をもとに文書を分ける方法が根拠のないものであることは、1941年ユダヤ人学者カッスートによって弁証された。今日、神名を文書資料分析の基準にすることができないということは学者間の通説になっている。」
*4『新キリスト教辞典』前掲書、174頁。「70人訳聖書では、エローヒームを「セオス」、ヤハウェを「キュリオス」と訳した。」
 新約聖書はギリシャ語(コイネ・ギリシャ語)で書かれている。その中に出てくる神の呼称は、セオス(神)1407回、キュリオス(主)533回の二つが主なものである。(『新共同訳 新約聖書語句事典』教文館、1991年による)これらの神名は、旧約聖書の流れと関係がある。
         旧約聖書             新約聖書
    E資料  エロヒム→・・・・・・・・  →セオス    神
    Y資料  ヤーウェ →アドナイ  →キュリオス 主

 旧約聖書にでてくるヘブル語のエロヒム(神)の流れ(エロヒムの頭文字をとってE資料と呼ばれる)は、新約聖書ではギリシャ語のセオス(神)へと受け継がれ、ヘブル語のヤーウェ(主)(ヤーウェの頭文字をとってY資料)はアドナイ(主)に変容し、新約聖書に至って、キュリオス(主)へと受け継がれていったと考えられる。しかし、このような語句のみの翻訳によっては、神の属性はむしろ隠蔽されてしまう。その語句のコンテキストと共に翻訳する必要があった。新約聖書では、2つの流れはそのまま受け継がれ、両者がほとんど同じ比率でむらなく用いられている。これは人間に開示された神の属性を、限定せずに保存したゆえか、新約聖書記者にはある程度、神の全体像が啓示されていたかであろうと思われる。
*5『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1988年、331頁。「エールは固有名詞であり、神々の王、被造世界の創造者、人類の父なる神々のパンテオンの至高神であった。このエールとイスラエルの神ヤハウェとの間の宗教史的関連の問題は最近の興味深い問題であるが、エール宗教を原始的アニミズムと解することはもはや不可能である。エールは「力」と語源的に結びつくとの説もあるが、異説も多い。族長時代の人名にはエールを含むものが多く(例、メトサエル、イスラエルなど)、ヤハウェをふくむものがないのは、イスラエルのヤハウェ宗教前の段階を示すものとして興味深い。モーセ以降エールの属性はヤハウェに吸収され、これを豊富にし、ヤハウェを呼ぶのにエールの名も用いられた。」
*6『聖書思想事典』三省堂、1973年、161頁。
William Gesenius, A Hebrew and English Lexicon of Old Testament,
Clarendon Press, Oxford, 1951, p.43 "God, used in ancient poems Dt.32:15/18,ψ18:32."
*7『神学事典』いのちのことば社、1986年、57頁参照。
*8同上、331頁参照。通常は「全能の神」と訳されるが、セム語の語源から「山なる方であるエール」と解する説が有力である。
*9植田重雄『宗教現象における人格性・非人格性の研究』早稲田大学出版部、1979年、30~32頁。
*10『新聖書大辞典』前掲書、331頁。エロヒムの「単数形エローアは二次的な形であり、ヨブ記など後期文書に多く、全体で60回出る。」
*11『聖書思想事典』前掲書、161頁。
*12William Gesenius, op.cit., p.43f.
『神学事典』前掲書、5頁。「複数形は、力の充溢を示すものとして、よりよく理解される。語源ははっきりしていないが、この語は「強い」という意味の語根に由来する。そしてその詩的単数形エローアは、恐怖の対象を意味しているように思われる。」
*13熊谷正喜他編『キリスト教概論』新教出版社、1989年、55頁。
*14近藤勝彦『現代神学との対話』ヨルダン社、1985年、197頁。
*15『新キリスト教辞典』前掲書、172頁。「ユダヤ人たちは、この神聖四文字のところを実際に発音せずに「主人」や「主」を意味する「アドーナーイ」と読み替え、そのために、神聖四文字の四子音文字に「アドーナーイ」の母音符号を付けた。そうすると「エホヴァ」とも読めることとなり、英欽定訳(1611年)では神聖四文字をJehovahと訳した。」
*16『新聖書大辞典』前掲書、332頁。
William Gesenius, op.cit., p.217ff. 出エジプト記6:3におけるサマリヤ訳のギリシャ音写は「Ιαβε」で、この見解を立証する。
Th.Boman, Das Hebraische Denken im Vergleich mit dem griechischen,
S.34f. ボーマンによれば、ハヤーには存在だけでなく、生成、活動をも表す意味があるという。
*17『新キリスト教辞典』前掲書、172頁。「神聖四文字ヤハウェは動詞に由来し「わたしは『わたしはある』という者」や「わたしはある」の説と一致することになる。オール・ブライトはこのことばの原意に使役形の意味があると考え、この神名の意味は「わたしは存在する者を存在せしめるもの」であるとする。一方、ロラン・ド・ヴォーは「わたしは存在するもの」と説明し、ヤハウェのみが唯一の実在神であることを表していると理解する。」
*18『新聖書大辞典』前掲書、332頁。
*19『聖書思想事典』前掲書、161頁。「それゆえ、ヤーウェは出現して自己を啓示するたびに、人がすでに知っているエルとかエロヒムという名で自分をよび、ヤーウェとはなんであるかを説明するのである。・・・こうして神(エル、エロヒム)という一般的な名と、ヤーウェというイスラエルの神名との間には、ある弾力的な関係、いわば弁証法的関係が成立するのである。・・・今度は自分をヤーウェとして啓示することによって、だれが神であり、かつ神とはなんであるかを、まったく新しい次元で示すことになるのである。」
『神学事典』前掲書、57頁。「この名はまた、意味においても最も一般的であり、最も特殊性を欠くものである。・・・ヤーウェと違い、エロヒムは異教の神々にも用いられる(創31:30、出12:12)。」
*20『聖書思想事典』前掲書、161頁。
*21『新キリスト教辞典』前掲書、174頁。「ヤハウェ神はもともとイスラエルの一部族の部族神として拝まれていたにすぎなかった。初めはカナンのいろいろの神々と共存し、一緒に拝まれていたが、ヤハウェ神の中に見られる倫理性を純化し、他の異教神と区別したのがイスラエルの預言者たちである。しかし、彼らの場合に、まだ宇宙全体の唯一の創造神という概念は見られない。それはバビロン捕囚の間のメソポタミヤ宗教との接触により弁証的に出現した。第2イザヤと祭司典編者により、創造伝承と救済伝承が統合され、エローヒームという神名はそれを表すために用いられたと考える。」
上村昌次『宗教は人間を救えるか』ヨルダン社、1984年、82頁。「旧約聖書にはじめから唯一神信仰があったということには異論がある。なぜなら族長たちが、どのような神を信じたかは、宗教史学の課題の一つであるからである。しかし、旧約聖書全体を通して見ると、神の唯一性信仰があることは否定できない。」
*22G・フォンラート『旧約聖書神学Ⅰ』(荒井章三訳、日本基督教団出版局、1990年)270頁参照。「捕囚後後期の固定化の時期を除けば、イスラエルにはそもそもあらゆる時代の上に絶対的に超越するヤハウェの法意志は存在しなかった。なぜならそれぞれの世代は、彼らに妥当する神の意志を聞き、それを自分なりに解釈するよう、つねに求められていたからである。・・・このような新解釈を全体として示している大きな例が申命記であり。それはヤハウェの意志を、ヤハウェが民に最初に語りかけたあの時代とは全く釣り合わない時代の生活領域において、語り込むことを課題としているのである。・・・ここそこでヤハウェが命じている多数の戒めを、単数的にトーラーとして、すなわち神学的統一体として理解しえたということ・・・に成功したのである。」
*23『新キリスト教辞典』173頁。「しかもヘブル思想においては、静的な神観念、抽象的な神定義は存在しないから、神の新しい働きが示されることは、もう一度神の名によって示されなければならない。そして、そのためには主(ヤハウェ)という神名以上に適切な用語は見当たらないのである。」
*24『キリスト教大事典』前掲書、25頁。
*25上村昌次、前掲書、88~89頁。
新改訳聖書でも、出エジプト17:14、創世記22:14では、神聖4文字の訳を「アドナイ」と表記している。
*26『新聖書大辞典』前掲書、331頁。「旧約の民は神の「生ける力」を自然よりはむしろ歴史と人間集団において見い出した。」
矢内原忠雄『キリスト教入門』角川書店、1989年、81頁。「すなわちエホバの完全な性格と能力と栄光は、人類の歴史を通じ、その発達段階に応じて啓示され、顕現されていくのであって、人類の歴史の最初からエホバの全貌が現わされているのではない。・・・エホバの顕現には進歩がある。」
*27『新キリスト教辞典』前掲書、175頁。「「神」「主」など日本語訳における神の称号が、内容面においても正しく理解されるために、教会は日常絶えず努力をする責任と必要性を持っている。」
『新聖書辞典』前掲書、321頁。「ジェームズ・フィリップスは、イギリスのキリスト者が抱いている神観の現状を分析して、「あなたの神は小さすぎる」と警告している。」(参照:J.Bフィリップス『あなたの神は小さすぎる』小峯書店、1971年)
*この論文は、城俊幸「旧約聖書における神名の意味」(『鹿児島純心女子短期大学紀要』第25号、1995年)を転載したものです。また、聖書からの引用は新改訳『聖書』(いのちのことば社)に従った。
スポンサーサイト

Trackback

Comment

Post a comment

Secret



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。